※本稿は、
【判断の章】電動オナホは、もういらない──そう思えた理由
から続く、記録の一部である。
行為を引き受けるという選択
電動オナホールに興味を失い、
俺はオナホの「あるべき姿」に立ち返ることにした。
そう、
自ら腰を振るという選択だ。
楽をするためでも、
効率を求めるためでもない。
その夜、
俺は「行為を引き受ける側」に戻った。
想像から始まる快感の記憶
俺は昔から、エロゲーやエロ漫画が好きだ。
理由は単純で、
そこには必ず「空気」があるからだ。
間の取り方。
視線。
表情の変化。
感情の揺れ。
ただ刺激が与えられているだけではなく、
そこに至るまでの過程が丁寧に描かれている。
若い頃から、
そういうシーンに出会うたび、
頭の中では自然と想像が始まっていた。
どんな動きで、
どんな呼吸で、
どんな表情になるのか。
それを思い浮かべながら、
自分の動きを重ねていく。
その時間こそが、
俺にとっては何より大事だった。
電動が奪っていた「過程」
電動に頼っていた頃、
確かに楽はできた。
だが同時に、
その過程が削られていた。
身を任せるだけで進んでいく快感は、
いつの間にか
想像する余地を奪っていた。
だから手動に戻った夜、
久しぶりに感じた。
腰を動かし、
呼吸を整え、
頭の中でシーンを組み立てていく感覚を。
ああ、
俺はこっちが好きだったんだな、と。
刺激ではなく、シチュエーション
エッチにとって大事なのは、
刺激の強さじゃない。
シチュエーションだ。
雰囲気を作り、
自分の気持ちをそこに置く。
俺は、
そういう時間を楽しみたい側の人間だった。
だから電動を捨てて、
手動に戻った。
効率ではなく、
選択として。
それだけの話だ。
触れて、思い出した温度(締め)
お尻。
おっぱい。
トルソー。
それらに再び触れるようになってから、
俺は一時期、確かに失いかけていたものに気づいた。
ボリュームのある尻に触れたときの、
あの確かな重さ。
自暴自棄になっていた心を、
黙って受け止めてくれるような、
包容力のあるおっぱい。
そして、
人の形をしているからこそ生まれる、
抱き寄せるという行為の実感。
値段が安くても、
きちんと満足を返してくれる床オナも含めて、
そこには共通して
「人間の感覚に近い温度」があった。
電動オナホールにのめり込んでいた頃の俺は、
それらを少しずつ手放していたのだと思う。
効率や楽さと引き換えに、
触れるという行為そのものを、
どこかで軽く扱っていた。
そして今、
孤独と欲望、そして救済は戻ってきた。
俺はもう、振り返らない。
これは後悔ではない。
選び直した結果だ。

